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弊社は昭和36年、明治期創業の明治鉱業株式会社の地質部として発足し、昭和40年に明治コンサルタント株式会社として設立されました。
明治コンサルタントをお知りになっていただくに際し、まずは「明治」と言う名前の由来を、そして母体となった「明治鉱業株式会社」について、さらに「明治鉱業株式会社」と関わりの深かった方々をご紹介いたします。
明治コンサルタントの「明治」は、明治鉱業の「明治」に由来しますが、この「明治」は、明治時代の「明治」、元号です。元号は中国に生まれ、朝鮮、日本などへ渡ってきた年の数えかたです。日本最初の元号は「大化」(645年)でした。中国や朝鮮にはすでになく、日本だけにこの伝統が残っています。
「明治」は、中国の古典、四書五経の一つである『易経』の説卦伝の 「聖人南面而聴天下、嚮明而治」の「明」と「治」によっています。 「聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる」の意味です。
明治元年9月7日の夜、福井藩主で幕末の四賢侯の一人の松平春嶽が選定した元号候補から、明治天皇自らがくじを引き、「明治」を御選出されたそうです。
▲当時の明治鉱業本社屋
明治鉱業株式会社は、安川敬一郎が創業した九州・北海道に鉱山を持つ炭坑会社です。戦時中は石炭大手8社の一員として日本のエネルギー界に貢献しました。その後は石油によるエネルギー革命と石炭埋蔵量の枯渇により、昭和44年に解散が決議され、70年にわたる歴史を閉じました。
▲安川敬一郎
安川敬一郎は明治鉱業の他に、安川電機、九州製鋼、明治紡績、黒崎窯業、などを創業しています。また、明治40年には東大総長であった山川健次郎を迎え、「技術に堪能なる士君子を養成する」という理想のもとに明治専門学校を創立しました。協議員の一人として、東京駅の設計で著名な辰野金吾博士を迎えています。同校はその後、国立の九州工業大学となり、現在に至っていますが、同窓会の「明専会」や学生寮の「明専寮」に明治専門学校の名前を留めています。この他にも、附属の小学校(現明治学園小学校)を開校しました。次男の松本健次郎は明治鉱業社長から石炭庁長官を務めています。
漂泊の俳人、種田山頭火。彼を終生支えた、俳誌「層雲」同人で医師の木村緑平は、昭和2年に福岡県糸田村の明治鉱業豊国病院に勤務し、後に明治鉱業赤池病院に移りますが、この筑豊における10年間に山頭火との強い結びつきがあったと言われます。山頭火が頻繁に訪れた木村宅は小高い丘の上にあり、谷を隔ててボタ山が見えたようです。
逢ひたい 捨炭(ボタ)山が見えだした <山頭火>
こうした歴史の一方で、炭坑現場の過酷な労働は多くの犠牲者をうみました。特に戦時中、大陸から連行された多くの方々に大変なご苦労と犠牲を強いたことには心の痛むところです。
そのうちのお一人、劉連仁(りゅうりぇんれん)さんは、昭和19年9月に中国の山東省から北海道沼田町の明治鉱業昭和鉱へ炭鉱労働者として送られました。当時の鉱業所の800人余りの労働者のほとんどは中国人だったといわれています。
昭和20年7月、劉連仁さんは鉱業所での屈辱に耐えきれず脱走し、終戦を知らないまま、まる13年もの間、たった一人で、北海道の山中での逃避行を続けました。石狩郡の当別町で偶然に発見されたのは昭和33年2月のことです。
劉連仁さんは平成3年から10年まで、当別町を3回訪れて町民と交流を続けた後、平成12年に87歳で亡くなりました。平成14年、当別町の有志の方々によって、劉さんが見つけられた場所の近くに「劉連仁生還記念碑」が建立され、長男の煥新さんを招いて除幕式が行われています。
この事件を題材として、詩人の茨木のり子さんが「りゅうりぇんれんの物語」を発表しました。弊社は明治鉱業を母体とした会社であり、劉連仁さんとの深い因縁を感じています。戦後60年以上が過ぎ、当時の記憶も少しずつ風化してゆきます。この度の弊社ホームページの更新を機会に、劉連仁さんや大陸からの労働者の方々のことを多くの人々に知って頂きたく、「りゅうりぇんれんの物語」を掲載いたしました。二度とこの様な不幸な出来事が起こらないことを願うばかりです。
りゅうりぇんれんの物語:茨木のり子[PDF:259KB]